discography
武田和命のダンディズム(奥成達さんの追悼文から)
明日(8/18)は武田和命さんの命日です。’89/11/14、ピットインで追悼セッションがありました。そのとき詩人の奥成達さんが読んだ「武田和命についていまになって思うこと」という追悼文が手元にあります。その中から武田和命のダンディズムについて論じた部分を紹介します。
2006/04
1989年11月14日、新宿ピットインで武田和命追悼セッションがありました。そのとき詩人の奧成達さんが読んだ「武田和命についていまになって思うこと」という追悼文が手元にあります。ちょっと長いのですが、その中から武田和命のダンディズムについて論じた部分を紹介します。
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大体武田さんは、本来、こうした追悼のコンサートのようなセンチメンタリズムとか、日本的なノスタルジィというようなものを、はっきりと嫌っている人のように見える人でした。
こんなときダンディというような言葉を使うと、人はすぐプレイボーイとかドンファンとか、キザなシャレ男を想像してしまうようですが、ダンディズムというのは、一口に言うと、一個の芸術ともいうべきもので、その点、武田さんは正にこのダンディの典型のような人だったと思うのです。
たとえばかっての、つまり18世紀19世紀のころのダンディたちについてですが、彼らの風変わりな神話的伝説はいま、いろいろと残っているにせよ、彼らにはいわゆる歴史に残る作品というようなものを一つも残してはいないのです。中にはバイロンとかボードレールとかいうようないく人かの人の名声はたしかにわずかに残ってはいますが、それはダンディそのものとしてではなく、彼らの書き残した作品によるものなのです。
その意味で、純粋なダンディたちには何も報いられるものはなく、途方もない自己犠牲に耐えながらも、なおかつ彼らのすべての行為は常に無償の行為そのものだったのです。
出世とか地位とかへの願望もなく、ただ単に無償のものを追い求めていたというわけです。
一般の人には無価値に映るものを、根気よく、自信を持って築きあげていくことによって、ダンディの存在の意味を、人々に印象づけていこうとしていたのです。
つまりこれは、いうなれば「印象的な無」というようなものです。
この「印象的な無」は「印象に残らない有」よりもはるかに存在価値は大きいはずです。
というのがダンディの「無の存在意識」というわけです。
ようするに、彼らダンディのすべては時代の流れを心の底から馬鹿にしていたということなのでもあります。
これは誰かにたのまれてわざわざそうやっているわけではけっしてないわけですから、ダンディというのは、言い方によっては相当のナルシストである、と同時にマゾヒストであるという人にもなります。しかし、その底に常に流れているものは、もちろん「美の追求」というところにありました。
この「美」というところを「ジャズ」と置きかえてみると、武田さんに限らず、ジャズミュージシャンは、おおむねみなこのダンディズムの人々という気がしてきそうです。
しかし、そのたくさんのミュージシャンの中でも、格別、武田さんがダンディなのは、「孤独の崇高性」というようなものがいつもただよい、つきまとっていた特別の人に思えるからです。
(中略)
いうなれば武田さんの放蕩無頼さは、どこにいても馴れ合うことのブキッチョな、(彼は意識的にそうしていたのかも知れませんが)ローンリーな「孤独者」ならではの「意志」が、彼の一挙手一投足を自己規制していたからゆえの、行動だったように、いまになって思えたりするのです。
つまりぼくの知る武田和命という人は、「友人」はいっぱいいましたが、これまで彼の「身内」というものが一度も登場してきたことはありませんでした。
日本はその身内の馴れ合いがどこへ行っても幅を利かせるところですから、武田さんのように「孤独」を愛する人には、ずいぶん居心地の悪い思いをしていたのではないかなと、いまになって思ったりもします。
彼はけっして嫌われ者ではないし、たくさんの人々に愛されてはいましたが、武田さん自身の中では、自分はどこへ行ってもヨソモノなのだという頭がいつもあったのではないでしょうか。これは、彼の普段の生活のことだけを言っているのではなくて、彼のジャズについても、まったく同様に彼は考えていたのではないでしょうか。
武田和命は孤独者に自らを置く、強い意志があるので、多少の偏見や誤解に対しても最初から大きな覚悟があったのでしょう。
松風鉱一さん
松風鉱一さんが亡くなった。4/1に連絡があった。翌日に松風さんとのduoのコンサートがあって、それが松風さんの小さいときからの友だち(染色家)といっしょのコンサートで、会場は同窓会のような雰囲気もあり、松風さんを送るいい会になった。
松風さんと最初に話したのは坂戸のホールでの松風さんリーダーのアルバムの録音を聴きに行ったときで、森山威男さん、川端民生さんが参加していた。なにを話したかもう忘れてしまったけれどその印象はずっと残っていて、その後、名古屋ヤマハジャズクラブ主催の高柳昌行コンサート(1987、8年か)に参加してもらって、それからはずっとで、渋谷オーケストラでは最初からのメンバーだった。武田和命さんが亡くなり、川端民生さん、古澤良治郎さん、そして松風さん、(臼庭潤さんも入れれば)5人もいなくなってしまった。
松風さんの音楽をなんといえばいいのか言葉が見つからない。オーソドックスであり、とんでもない個性でもあり、という両方を兼ね備えていた。
しばらくは松風さんのことばかり考えるんだろうなあ。元気を出さなきゃ!
vocalの
vocalのレコードをよく聴くようになったのはあの有名なヘレン・メリルとクリフォード・ブラウンあたりからだ。最初は歌を聴くというよりアレンジが聴きたくて聴いていた。
クインシー・ジョーンズには熱中した。それからギル・エバンス、ジョニー・マンデル(これは「私は死にたくない」という映画を見て好きになった)などなど。そのうち歌にも興味を覚えて、最初に好きになったのはダイナ・ワシントンだった。これはクインシーのアレンジがよかったけれど、そのうちスタンダードを歌っている、あのチープなアレンジ(誰だかわからない)が好きになった。クインシーのアレンジではペギー・リー、それからビリー・エクスタインのライブ盤もよかったしサラ・ボーンとヴァイオリンという佳品もあった。そのクインシーもなんだか偉くなってつまらなくなってだんだん聴かなくなってしまった。
そうそう、ヘレン・メリル、クリフォード・ブラウン盤でピアノを弾いていたジミー・ジョーンズのアレンジが素晴らしくてこちらにも熱中した。
デューク・エリントンを聴くようになってからはどういうわけかアレンジにはあまり興味がなくなった。
でも、クインシーの昔のアレンジの(歌の)バックのフレーズなどたまに聴くとあまりによくて涙が出る。
おめでとうございます
今年もよろしく!
Luz Do Sol(平田王子さんとのDUO)の5枚目「雨上がり」ができた。アルバムを作るときはリハーサルをしたり、なんだかんだで一年くらいかかる。新しい曲が仕上がらないでもう一年くらいかかったりしたこともあった。こんどのアルバムも前4枚と変わりはない。曲などはもちろん違うけれど全体の構成は同じだ。相変わらず平田さんのオリジナルがすばらしい。ひさしぶりに九州とか北海道とかこれを持って旅したいものだ。しかしこのコロナの状況で落ち着いた旅ができるかどうか。
この一年足らずのうちに自分のが一枚、今月発売の平田さんの、それに助川太郎さんの計三枚が出ることになった。すごく仕事をしてるように見えるけれど大したことはない。ただピアノを弾いているだけだ。今年も元気で弾けるように、だ!
もうすぐ10月
夏はいつもライブが少ないのに今年はどういうわけか多くて、それに暑かったせいかちょっと夏バテ気味で、ここにきて少し回復した気がする。いや、これからの季節は気候がいいしおいしいものがたくさんあるからこれから回復するのか。
もうすぐ10月だ。9月から10月はキノコの季節だけれど最近は行ってない。キノコの名前をすっかり忘れてしまった。食べられるのはだいたい憶えているけれど、どうにも判断のつかないのもあって、しばし眺めて首をかしげることになる。そういうのは地元の人に聞いてみるのが一番だ。10月中旬まで、なんとか時間を見つけて行きたい。
ライブは特に変わったことはない。いや、ある! 何十年ぶりかに早川岳晴さんといっしょに演奏する。早川さんは川端民生さんがネイティブ・サンに参加してできないとき、いつもやってもらっていたのだ。なつかしい。
後は京都エンゲルスガールの下司さん主催するライブを二日、いつものギャラリーのざわで。ごいっしょするのはコロイドというグループの中の2グループ(う~ん、間違ってるかもしれない)、「たゆたう」と「浮・ブイ」。
またLuz Do Sol(渋谷毅、平田王子duo)の新しいアルバムを持って桜座と八ヶ岳のグリーンプラザへ行く。
月末には下北沢のラカーニャで両手に花(金子マリ、小川美潮)。
楽しい秋!
池上比沙之さん
池上比沙之さんが亡くなった。友だちが亡くなるのはさびしい。それが近くにいた人ならなおさらで、池上さんにはオーケストラをはじめる前から、仕事、遊びなど仲よくさせてもらった。足利のワイナリーにも何度か行って一日ワインを飲んで(もちろん演奏もしたけど)、たわいない話や深淵な話をしたりして飽きることがなかった。アマチュア無線をやっているといったらぼくもやっていたなどと話が返ってくるし、なにを話してもそうで、こういう人も世の中にはいるんだと尊敬の眼で見ていた。アルバムのライナーノーツも書いてもらった。最新のは2016年の市野元彦さんとの「Childhood」だった。昨年(2021年9月)のせんがわジャズ祭では池上さんと対談する幸運に恵まれた。ひとりで話せばとっ散らかってしまう話も池上さんのおかげでうまくまとまった。
もう少しいっしょにいたかった。親しい人がいなくなるのは自分がいなくなるのと同じだ。
さようなら。
4月は
4月はいずみたく、中村八大の亡くなって30年のコンサートがあってちょっと落ち着かなかった。このところショー(というかステージ)の仕事をやってなかったのでその感じをすっかり忘れていて、ただピアノを弾くだけなのに、なにをどうしていいのかわからなくて、初心者のようになっていた。そうか、いまは別の世界にいるんだなあとつくづく思った。
同じ音楽をやっていてもその考え方、もちろん感じ方も人によってずいぶん違う。あたり前といえばあたり前だけど、音楽を仕事にしていれば、そういう世界ともつき合っていかなくてはならない。いや、いい歳になったからこれからは好きなことだけして、というのもあるかも知れないけれど、ずっとコマーシャル業界で仕事をしてきたのだ(いまはあまりしていないが)、そういう仕事の仕方しか知らない。
いまはピアノを弾くのが一番だ。テクニックはないけれど、どうしたら美しく聴こえるかだけを考えて弾いている。モーツァルトもベートーベンもバッハも弾けないけれど、それだけで音楽をやっていると感じる。心のどこかで誰かがそういうのだ。
ジョニー・マティスの古いアルバム
CDを整理してたらジョニー・マティスの「A New Sound In Popular Music」というアルバムが出てきた。これは昔(60年くらい前か)渋谷の百軒店にあった古道具屋の隅に積まれていたLPを、なにかないかと一枚一枚調べていて見つけたそれのCD化されたものだった。LPは埃まみれでチューインガムが張りついてたりするひどいものだったけれど、内容がずっと探していたものだったので繰り返し聴いた。
ジョニー・マティスはジャズ歌手ではないけれど、このアルバムはギル・エバンス、ジョン・ルイス、マニー・アルバム、テオ・マセロ、ボブ・プリンス、パーシー・フェイス、レイ・コニフなどがアレンジをしていて、ギル・エバンスとジョン・ルイスのアレンジが聴きたかったのだ。中ではPrelude To A Kissのジョン・ルイスのピアノソロがよかった。アレンジはジョン・ルイスもギル・エバンスもその片鱗が聴こえるといった程度だったか。
しかし不思議なアルバムだ。1956年録音とあって、よく見たらプロデューサーはGeorge Avakianだった。なるほど!
2022年1月
おめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
今日(1/7)はアケタの店で古澤良治郎新春スペシャルセッション。毎年この日にやってて、古澤さんが最後までやっていた「ね.」というグループを中心にたくさんのメンバーが参加します。ぼくもいつからかやっていてずっとやっています。
古澤さんの活動は広範囲だったので全体を把握するのは難しいけれど、そんなことを考えなくても「ね.」だけを聴いていても古澤さんがわかると思っています。だって古澤さんの一番いいところがすべて「ね.」にあると思うから。もちろんあのドラムの素晴らしさは「ね.」ではわかりませんが、それは古澤さんのアルバムを聴けばいいわけです。
この日のセッションが終われば関西に行ってきます。沢田穣治さん、山内詩子さんとセッション、つづいて翌日は山内さんとduoの活動している東ともみさん(guestに平田王子さん)とduo、その翌々日には山内さん、東さんと3人で、最後の日はついこの間アルバム「Good-bye -浅川マキを抱きしめて-」を発表した伊香桃子さんとduoとなんだかにぎやかになった。
もう11月だ
11月になった。このところ特に忙しいこともないから年末まで何事もなく過ごせると思う(だったらいいけど)。
来年が大変そうな気がするけれど、まだわからないことをあれこれ考えてもしょうがないから、そうなったらまたそのときに考えるとして、
今月は北海道に行ってくる。といっても札幌周辺だけで、これは札幌の勝田さんが声をかけてくれたからで、せっかく行くのならそのライブの後に栗渋(栗田妙子さんとのduo)でちょっとだけまわってくることにした。小樽のフリーランス、札幌のジェリコ、洞爺の杢(もく)、室蘭の満冏寺(まんけいじ)。ジェリコはちゃんとやるのははじめてかも知れない。満冏寺ははじめてだ。
札幌では東京にいた川村年勝さんに会える。コロナも少し落ち着いているようでよかった。ちょっと前だったら会うこともできなかった。
洞爺の杢には昔の伊達ジャズクラブの友だちがきてくれるはずだ。楽しみだなあ。ぼくの北海道の旅はここからはじまったのだった。50年近く前の話だ。はじめて伊達に行ったとき、面白いところがあるから、と案内してもらったのがシブヤシゲヨシさんのところだった。シゲヨシさんのことは前にblogに書いたので、興味がある人は見てください。