名古屋にいた今西さんに誘われて四日市のTAKE ZEROに行ったのは10年近く前か。そのとき知り合ったのがルークレコードの喜多野さんだ。
いままで名前も知らなかった。名前を知らなくても困ることはなかったし、誰かと話すときは「レコード屋さん」とでもいえばそれで済む。なにを話したか憶えていないけれどいろいろ話をしたはずだ。四日市のライブのときはもちろん、名古屋のラブリーにも必ずきてくれた。どこだったか、とんでもないところで会ったこともあったなあ(あれはどこだったか)。それが昨年のラブリーにこなかった。しかしまさか病気だとは思わなかった。
みんななにもいわずいつのまにかいなくなる。4月26日、TAKE ZEROにピアノを弾きに行く。
やれやれ
Windows7のサポートが終わってしまったのでWindows10にした。パソコンもベアボーンの安いの変えて、まだ使えるものは使うことにしてさっきまで設定と格闘していた。
使えなくなったソフトはこれからさき使えるかどうかわからないのでいまあるものでなんとかしないといけない。時間がかかるなあ!
今日はこのくらいにしておこう。おつかれさま、と自分にいってみる。
2月だ!
さすがに1月はライブが少なかったけれど2月、3月はいつも通りだ。いや、3月はいつもより多いかも知れない。特別なものといえば、昨年からの二階堂和美さんとのライブがあるし、しばらくやっていなかった秋山一将さんとのduoもある。そうそう、特別といえば2/4にはじめてやるベルベットサン(荻窪)のpiano soloが面白い。というのは、普通、一日に2ステージやるライブを3回にして、1回ずつ料金を取るという変わったシステムで、もちろん1回の料金は安い。1回でもいいし2回でも3回でも聴けるというわけだ。
考えてみればこれはいい方法だ。ちょっと聴きたい、ゆっくり聴きたいというのは誰にでもあることだもの。もしかしたら将来そうなるかも知れないあ。
おめでとうございます
おめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
午後起きてお雑煮を作って、といつものお正月、さてこれからどうしたものかと考えてるところ。ライブは4日からだから後二日、なんということなしに過ぎて行くんだろうなあ。
昨年のいま頃は大和田ホールのエリントン特集の準備で落ち着かなかった。今年はそんなことがないからゆっくりだ。
しかし早く暖かくなってほしい。やりたいこともこう寒くてはなにもできない。
早くこい、春!
いきなり、お墓だぜ
部屋を片づけてたら2011年6月18日”sayonara”FURUSAWAsan”実行委員会編集発行の小冊子が出てきた。
「いきなり、お墓だぜ」というのを書いていたので再掲します。ピットインで行われた古澤良治郎特集ライブのときお客さんに配ったものです。
車で走っていたら右手に突然お墓が現れた。宮崎市内から空港までの間のことだ。いきなりお墓だ。古澤さんは宮崎でライブがあったらしい。その帰りだ。
で、できた曲が「いきなり、お墓だぜ」。だれかにそう聞いて、いや、聞き間違いかも知れないけれど、しかしその場面を想像すれば、そのときの情景が浮かんできて、古澤さんの一挙一動が鮮明になってくる。それでそうに違いないと納得する。確かめたところによると、なんと、「いきなり、お墓だぜ、Babyわかるかな」までそのときできていたんだそうだ。
古澤さんが作った曲はたくさんあって、その中には名曲といわれるものもたくさんあるけれど、ぼくの中の名曲は、断然「いきなり、お墓だぜ」。この曲をはじめて聴いたときの印象は強烈で、なに、これ? と思って、聴き終わって、もう一度聴きたいと思った。いや、一度じゃなくてあと十回ぐらいは聴きたかった。そしてこんな単純な曲とも思えない曲がなんでこんなに面白いんだろう、としばらく考えた。いまも考えている。
そういえば、古澤さん作る曲にはそういう曲がたくさんある。その一つひとつは憶えていないけれど、それがみんな面白くて、そして苦労して作ったという感じがしないから、これはそういうちょっとしたことをすぐ曲にしてしまう不思議な才能が古澤さんにはあった。
あ、これ面白い、と思ったらすぐそれが曲になる。まるでデューク・エリントンが自分のオーケストラを「私の楽器」といったのと同じように、例えば古澤さんの「ね.」は古澤さんの楽器だった。やってみて面白ければどんどん面白くなるのはセッションの常だから、曲は一人歩きする。どうも古澤さんはそこまでも考えていたような気がしてならない。
今年の祝春一番で「パパラッコスペシャル」というのがあった。メンバーは「パパラッコ」とはちょっと違うけれど。もちろん古澤さんの曲だけを演奏した。で、改めて思ったのは古澤さんの作るそういう曲が、こういうお祭りに実にぴったりだということだ。名曲と言われるロマンティック(センチメンタルといった方がいいか)な曲までもがそうなのだ。これも不思議のひとつ。
「たまには西荻に遊びに来ませんか?」という曲がある。これは「いきなり、お墓だぜ」より断片ではないけれど、そうでもないような気もしてその辺りがよくわからない。でもこれはバランスが取れていて実にいい曲だ。好きだなあ。でも、なんといっても「いきなり、お墓だぜ」が最高! この曲を聴いていろいろ考えても仕方がないと思っても、どうしてもなにか考えてしまう。
今日はそういう曲がたくさん演奏されると思う。古澤さんの世界が全部聴ける。
聴いたら、あゝ、まだこんな魅力ある曲があったんだ、などと思うかも知れない。
ゆっくり聴いてってくださいね。
城島繁実さん
柳川ファンクールの城島繁実さんが亡くなった。80年代(いやもっと前からか)、九州のツアーでは必ず演奏に行ったところだ。最初に行ったときは確か鹿児島の中山信一郎さんがいっしょで、はじまる前にMCをしてくれた。何回ファンクールに行ったか憶えていない、そのくらい行った。
忘れられないのは武田和命4(渋谷、川端民生、渡辺文男)で行ったことで、その演奏を家庭用のビデオで撮った映像を後で見たら、あまりにすばらしいのでそれをDVDにした。画質は悪いけれどそんなことは問題にならなかった。武田さん、川端さんももういないけれど、この4人の演奏が記録されていて本当によかった。最後に行ったのは平田王子さんとの「Luz Do Sol」だったか。
最近、ライブをやめたという話を聞いた。そして引退したという話も聞いた。親しくした懐かしい人がいなくなる。なんともいえない。
しぶやさんといっしょ
しぶやさんといっしょというライブを12年くらい前からやっている。いままでに作ったおかあさんといっしょの曲や、いろんな歌手に書いた曲をみんなで歌ったりするライブだ。年に3回。
いや、こんなことをライブハウスでやるとは思いもしなかった。いまの人はそんなことはないだろうけれど、ちょっと前まではそういう音楽はコマーシャルといって、ちゃんとした音楽とは認められていなかった。そういうこともあって(神聖な)ライブハウスで演奏するなど考えられなかったのだ。大友良英さんなどは「そんなことは一切なかった」といっていたから、彼の時代あたりからは変わってきていたんだろう。
で、(恐る恐るだったけれど)気が楽になったので、東京だけでなく関西でもしぶやさんと123 !!!というのをやっている。こちらは年に2回。これは関西のナガオクミさん(vo)が中心になってまとめてくれている。また昨年からは夜中のアケタの店soloのときに、藤ノ木みかさんにきてもらって、ライブ後半はしぶやさんといっしょ最小単位(ふたり)をやっている。
しかし、子どものうたも歌謡曲も作る機会が減ってきた。歌は頼まれて作る。その頼む方の人たちが既に定年になったり亡くなったりしていて、後を継いだ若い人は同年代の作家と仕事をするのが普通だからこちらの出番はだんだんなくなる。当然のことだ。そんなことを考えずにやれ、という人もいるかも知れないけれど、誰が発表の機会もないそんな曲を作るものか。しかし(人にもよるが)、曲を作るのは年中やっていないとなかなかうまくできない。たまに頼まれて書くのではどうも具合が悪い。そうか、こうして歳を取って行くんだな、などと思ってもそれでどうなるというわけでもない。考えれば世の中うまくできてる、というものだ。
再掲 竹内哲夫さん
ちょっと前のblogを見ていたら竹内哲夫さんが亡くなったことを書いていた。なつかしいのでここにもう一度。
竹内哲夫さん
2010/07/06 火曜日 – 12:07:47 by tshibuya
竹内哲夫さんが亡くなった。ジャズを聴きはじめたころ、銀座にあったテネシーという(いまでいえば)ライブハウスで何回も聴いていた。高校3年生のときで、そのときは河辺公一とエマニアーズというバンドで、河辺公一(tb)、杉原淳(ts)、竹内哲夫(ts)、世良譲(p)、田端貞一(ds)、広瀬文彦(b)というメンバーだった。聴きはじめたきっかけは、ある雨の日、テネシーに電話して「今日の出演は誰ですか」と聞いたら、河辺公一とエマニアーズだという。知らない。なにしろその頃はジャズを聴きはじめたばかりでなにもわからない。で、それはなんですか、と聞いたらモダンジャズだという。モダンジャズなるものは聴いたことがない。南里文男とホットペッパーズだったらいいなあ、と思っていたくらいだからちょっとがっかりしたけれど、とにかく行ってみた。二階のピアノの真上の席に座る。
びっくりした。ピアノの世良さんはまだ30前だっただろう。テクニックとスピード感がすばらしくて、後のカクテルピアノのような味はまったくなかった。たちまちファンになった。それからはエマニアーズばかり聴きに行くことになった。
モダンジャズ開眼。
そのときに世良さんの次に印象的だったのが竹内哲夫さんだった。実に端正でしっかりしたテナーでソニー・スティットのようだった。もっともそのころはソニー・スティットなど知らなかったけれど。杉原淳さんはまだ新人で荒削りだったから一層竹内さんの演奏が際立った。
その後竹内さんはシックスジョーズに行ったような話しを聞いた。だから聴いたのはそのエマニアーズ時代だけで、ずいぶん後になって渡辺明とエンバース・ファイブの一員として演奏しているアルバムを聴いたことがある。エマニアーズ前後の録音だろう。
竹内さんはずいぶん早い時期に演奏は止めてしまったようだけれどいまでもその演奏を思い出す。すばらしかったなあ。
釣りに行きたくなった
釣りに行きたくなった。育ったところが多摩川のすぐ近くで、小学3、4年生の頃は学校から帰るとすぐ釣竿を持って川に行った。延竿に木綿糸の道糸、針だけは買って餌はミミズを掘って、と、そんなものでハゼやハヤ(ウグイ)を釣った。たまにセイゴがかかったりすると超うれしかった。みんな焼いて食べた。川魚は焼くと特有の匂いがして、嫌いな人は嫌いだけれどぼくは好きだった。
その後、大人になってからは伊豆の富戸辺りに出かけて行って、夏は電気ウキでイサキを、冬はハバノリでブダイを釣った。25、6歳の頃だ。
それからずっとやっていなかったけれど、2年ほど前、tubaの高岡さんが釣りをしているのを知って連れて行ってもらった。いっしょに行ったのは一度しかないけれど、高岡さんの釣りに対する姿勢、考え方にいたく共感した。どんな、といわれても答えようがないけれど。彼のように集中することはとてもできないが、できるだけ丁寧に、楽しんでやることにしている。これから秋の終わりまで、時間見つけて出かけよう。
再掲 武田和命のダンディズム(奥成達さんの追悼文から)
1989年11月14日、新宿ピットインで武田和命追悼セッションがありました。そのとき詩人の奧成達さんが読んだ「武田和命についていまになって思うこと」という追悼文が手元にあります。ちょっと長いのですが、その中から武田和命のダンディズムについて論じた部分を紹介します。
(これは2006/04/01の投稿です)
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大体武田さんは、本来、こうした追悼のコンサートのようなセンチメンタリズムとか、日本的なノスタルジィというようなものを、はっきりと嫌っている人のように見える人でした。
こんなときダンディというような言葉を使うと、人はすぐプレイボーイとかドンファンとか、キザなシャレ男を想像してしまうようですが、ダンディズムというのは、一口に言うと、一個の芸術ともいうべきもので、その点、武田さんは正にこのダンディの典型のような人だったと思うのです。
たとえばかっての、つまり18世紀19世紀のころのダンディたちについてですが、彼らの風変わりな神話的伝説はいま、いろいろと残っているにせよ、彼らにはいわゆる歴史に残る作品というようなものを一つも残してはいないのです。中にはバイロンとかボードレールとかいうようないく人かの人の名声はたしかにわずかに残ってはいますが、それはダンディそのものとしてではなく、彼らの書き残した作品によるものなのです。
その意味で、純粋なダンディたちには何も報いられるものはなく、途方もない自己犠牲に耐えながらも、なおかつ彼らのすべての行為は常に無償の行為そのものだったのです。
出世とか地位とかへの願望もなく、ただ単に無償のものを追い求めていたというわけです。
一般の人には無価値に映るものを、根気よく、自信を持って築きあげていくことによって、ダンディの存在の意味を、人々に印象づけていこうとしていたのです。
つまりこれは、いうなれば「印象的な無」というようなものです。
この「印象的な無」は「印象に残らない有」よりもはるかに存在価値は大きいはずです。
というのがダンディの「無の存在意識」というわけです。
ようするに、彼らダンディのすべては時代の流れを心の底から馬鹿にしていたということなのでもあります。
これは誰かにたのまれてわざわざそうやっているわけではけっしてないわけですから、ダンディというのは、言い方によっては相当のナルシストである、と同時にマゾヒストであるという人にもなります。しかし、その底に常に流れているものは、もちろん「美の追求」というところにありました。
この「美」というところを「ジャズ」と置きかえてみると、武田さんに限らず、ジャズミュージシャンは、おおむねみなこのダンディズムの人々という気がしてきそうです。
しかし、そのたくさんのミュージシャンの中でも、格別、武田さんがダンディなのは、「孤独の崇高性」というようなものがいつもただよい、つきまとっていた特別の人に思えるからです。
(中略)
いうなれば武田さんの放蕩無頼さは、どこにいても馴れ合うことのブキッチョな、(彼は意識的にそうしていたのかも知れませんが)ローンリーな「孤独者」ならではの「意志」が、彼の一挙手一投足を自己規制していたからゆえの、行動だったように、いまになって思えたりするのです。
つまりぼくの知る武田和命という人は、「友人」はいっぱいいましたが、これまで彼の「身内」というものが一度も登場してきたことはありませんでした。
日本はその身内の馴れ合いがどこへ行っても幅を利かせるところですから、武田さんのように「孤独」を愛する人には、ずいぶん居心地の悪い思いをしていたのではないかなと、いまになって思ったりもします。
彼はけっして嫌われ者ではないし、たくさんの人々に愛されてはいましたが、武田さん自身の中では、自分はどこへ行ってもヨソモノなのだという頭がいつもあったのではないでしょうか。これは、彼の普段の生活のことだけを言っているのではなくて、彼のジャズについても、まったく同様に彼は考えていたのではないでしょうか。
武田和命は孤独者に自らを置く、強い意志があるので、多少の偏見や誤解に対しても最初から大きな覚悟があったのでしょう。